02/十字架は御法度です。
…遠くに、月がみえる。それは、 東の記憶。
「……しっ」
…これは、夢なのか。それとも、過去なのか。
「…なしっ」
…自身の形が分からなくなる。世界と、自身との区別がつかなくなる。まるで水に浸るような、感触。これはーーー
「つなしっ!」
ーーー鼓膜から混濁とした意識に、細波が広がる。凛とした声に刺激されて意識が鮮明化していく。自分の名を告げるその声は強い口調ではあったが、けっして耳障りなものではない。それは逆に聞く者を鼓舞する様な、声。
そんな声に揺り動かされて、十は目覚めた。まだ朦朧としつつ、瞼を開く。開かれた視覚が見るその光景は、間違いなく自分の部屋。しかし、視点が異様に低い。そこでようやく、彼は自分が障子の前で何故か現在進行形でぶっ倒れている事に気付いた。板張りの床が頬に触れて、ひんやりとした感触を伝えている。「…起きた? 何やってるの、十?」
「…ちょっと、床の気分を知りたくて」再度の声に、起き上がりつつ、彼は咄嗟に思いついた台詞を返す。視線をあげてみれば、そこには白衣と緋色の袴を纏った、長髪の、紛う事無き巫女さんが両腕を組んで立っていた。
「…また変な趣味に目覚めたのね。」
その巫女さんは腕を腰について、冷たい目で十を見下ろした。黒色の、透き通った視線が十を捉える。そんな目で見られると、本当に自分が床の気分が知りたくて床に横たわる様な変態に思えてくる、気がする。
(… んなわけないでしょ。)
とりあえず抗議したいのだが、抗議すると後が面倒くさいのはよく知っていた。そこで彼はとりあえず、巫女さんの言葉を聞かなかった事にした。床に何時までも倒れているのも、ちょっとあれなのでひんやりする床に手をつき、立ち上がる。
体調は到って良好。少々朝日が眩しいが、気持ちのよい朝だ。
そう思いつつ、ゆっくりと大きく伸びのし、体をほぐす。その様をしばらく巫女さんは見ていたが、すぐに頭を振った。「ま、いいわ。朝御飯食べたら、さっさと学校にいきなさい。もう7時15分よ」
「… そういう事は先に言ってくれよ、マリ姉」
「あら。言っただけ感謝して欲しいものだけど」
「どうせ親切するなら、最後まで親切でいようよ!」言いながら、十は障子を開け、そして走った。板張りの床が体重62kgの重量が生み出す慣性に悲鳴をあげる。音はあっという間に遠ざかり、消えていく。
その音を見送りながら、麦秋マリはひとつため息をつくと部屋を見渡した。そしてカーテンが開いてない事に気付く。
(…いくら慌てても、窓掛け位開いていきなさいよ)
鎮遠神社の権禰宜を務める巫女である彼女がやるべき事は多い。だから本来なら、弟の部屋の窓掛けを開ける時間などない。どうやらまた、廊下の向こう側で壮大に廊下に悲鳴をあげさせている弟に注意する事ができたようだ。そう思いつつマリはカーテンに手をかけ、ベッドの上に散らばる、ソレを見た。
「ごちそう様でした」
両手を合わせ、今はこの場にいない朝食(の残骸)の制作者に十は感謝した。どんなに忙しい時でも、彼は食前と食後のこの挨拶は欠かさない。礼に始まり、礼に終わる。それが麦秋家の長男として生まれた彼の、習慣だった。単に美味しい料理をつくってくれる姉がいる事への感謝でもあったのだが。そして、立ち上がり、椅子を戻すとまたも、走る。今度は自室へと。踏みならされた廊下がまたも抗議の悲鳴をあげるが、十はそれを完全無視。カーテンを開けなかった為ちょっと暗めの自室へ入ると、急いで登校への準備を整えた。本当は歯磨きだのなんだので10分はかかる所を、3分で終わらせる。
「じゃ、いってきます!」
大声で、無闇に広い家の何処かにいるであろう姉に挨拶すると十はまたも走った。今度は、玄関へと。そして3つの鳥居をくぐり抜けて、彼は学校へと向かった。寝不足の所為だろうか。何時もは気持ちよい日差しが、なんだか気持ち悪かった。
走っていると、普段見慣れた風景があっという間に通り過ぎていく。
十の通う高校は、わりと伝統がある学校である。なんでも、昭和の初期に西洋からやってきた金持ちが設立したらしく、大体においてその外見は校舎というよりも、洋館と言った方が相応しい面立ちをしている。もっとも昔のままなのは外見だけで、中は随分と改修はされてはいるが、たまに今でもよくわからない通路や仕掛けが見つかったりもする。
そんな学校の、当然立派な校門へと続く曲がり角。そこで彼は突然に止まった。スニーカーと地面の摩擦が運動エネルギーを減殺する。
勿論、止まったのには理由があった。理由もなく止まるのは馬鹿か臆病者がする事であり、そして十は馬鹿でも臆病者でもないと自負している。彼が止まった理由は、もはや街の名物ともなってしまった校門前にいるかもしれない、あるとてつもない馬鹿の団体にあった。
(…神サマ。お願いですから、今日くらいは僕に穏やかな一日を下さい。)
確率的にはいてもよさそうな神に祈り、角から校門を覗き込む。
二秒。
少なくとも神様は自分の味方でない事を悟り、十はうなだれた。だが、そんな傷心を一ミリグラムも考慮する事なく、その団体の声は彼の耳に到達、鼓膜を振るわせて情報を強制的に十に伝える。正直脳内遮断したいのだが、そんな便利な機能は十にはない。「諸君、おはよう。今日も一日、誇り高き大和民族の学生として恥ずかしくない振る舞いをしてくれたまえ!」
一部団体の方々が聞けば、驚愕と怒りに体を震わせような言葉。それが校門に陣取った団体の中央に立つ、どうみても少年とはみえぬ少年から発せられ、春先の朗らかな空気を侵蝕していた。
一見、全員が頭に白い鉢巻きをつけたその団体は応援団に見える。だがその構成員は屈強な男子だけではなく、明らかに小柄な女子も含まれていた。その異彩の集団の中でももっとも目立つのが、中央で叫ぶ一際大きな少年とはとても言い難い少年だ。
その少年は、巨大と形容するのが相応しい肉体を学生服で包んでいた。筋肉が、服の上からでもそれと分かる程に発達している。それは明らかに力を生み出す為の、肉の塊。
その第一印象を形容するには、一言で足りる。熊である。それも月の輪熊などという可愛らしい熊でなく、明らかに羆か灰色熊である。一応笑顔なのだが、笑顔も顔によりけりだ。彼程のごつい顔で笑われても、それは肉食獣が得物を前にした表情とたいして変わらない。はっきり言って、その様は怖い。隣で同じ様に立つ、鉢巻きをした小柄の、何処かリスを連想させる女の子の存在も、その威圧感を和らげるには至らない。それどころか少女と少年の体格差は見事なコントラストを醸し出し、少年の巨体を更に巨大に見せていた。そのおかげで、先ほどから横を通る女子生徒は例外なく校門に入った直後にダッシュしているし、男子生徒でさえ明らかに少年と可能な限り距離をとって登校している。気のよわい生徒に到っては、ほとんど泣きながら登校している始末だ。
少年の名は、宗谷逸朗。彼こそは、いまや街の名物ともなった、高校三年生にして身長189cm体重95kgの巨躯を誇る生徒会長補佐である。「豪傑熊」「報国の鬼神」「エアーズ・ロック」。幾つものよくわからない通り名を持つ彼は、生徒会が保有する最大の戦力であり、「実行部隊」の指揮者として数々の戦歴をあげ、数々の不良や今時珍しい暴走族を武力粉砕してきた。
そんな彼に目を付けられたものはほとんど例外なく色々と目に当てられない事になっている。被害者達の惨状を考えれば、彼が朝校門に仁王立ちする位はむしろ僥倖であろう。
だが、宗谷にばっちり目をつけられている者にとっては話は別だ。校門をくぐる為の代償は、恐怖だけではすまない。取得した総合段数は15を下らない宗谷の実力を、否応が無しに披露されるのみ。そんなわけなので、最強の生徒会長補佐にばっちり目をつけられたものである十はどうしたものかと悩んだ。
(… 朝からあんなん相手にしたら疲れるよなぁ…。だけど、このままじゃ遅刻するしなぁ…)
いやだなぁと呟きつつ校舎の時計を見上げてみれば、時はすでに閉門時間5分前。このままふけるのもありかと一瞬考えたが、根が真面目な彼にはその選択肢は選べなかった。(…もう仕方ない、どうせ遅刻だろうけどやるだけやるかーーー)
そう思って一歩前へでた瞬間、彼の前をすたすたと一人の女学生がでた。ぶつかりそうになり、思わず漫画の様に手を振り回してバランスをとりなんとか躱すが、黒髪の少女の方は気付きもしない。一瞬だけ横からみえたその横顔は、素直に「綺麗」と十に思わせるだけの器量だった。不覚にも一瞬だけみとれる。
だが、直座に少女の胸に、ヘンなモノがついているのに気付いた。その瞬間思考が止まり、続いて一気に顔面から血が降下するのを十は自覚した。
慌てて飛び出て、少女を制止しようとしたが間に合わない。少女は、意外な事に宗谷を見ても何ら感慨も抱かぬ様に歩き続け、宗谷の横を通り抜けようとし…… そして、鉢巻きをまいた小柄な二人の少女に道を塞がれた。「…え?何か?」
少女が、少し驚いた様に尋ねる。必死に十は「逃げろ」と電波を送るが、少女は受信してくれない。
そもそも十にそんな便利な能力は無いが、なんとか意志を伝えようとする。
だが、その間に少女達は無情にも十の懸命な努力を無視して校門の中央にそびえ立つ宗谷へ叫んだ。
「補佐! 大変です!」
「大変です! 実際大変です!」
「ん?どうし──」
少女達の高い声に振り向いた宗谷の声が、宗谷の方へと振り向いた少女を見た途端に凍る。一瞬の静寂が、校門前を包み込み… 直後一気に宗谷の威圧感が膨らむ。まるで気温が数度あがったかの様な錯覚さえ感じる威圧を迸らせながら、巨大な右手で少女の胸元を指差し、宗谷がむしろ静かに言葉の言葉を放った。
「… 君。 それは、何かね?」
少女がきょとんと首をかしげ、視線を宗谷が指差している場所へと下げる。しばらく下げた後、はっと気付いた様に少女は口を押さえた。
「え? …… えと、あれ、ひょっとして駄目でした?」きらり、とソレが気持ち悪い日光を反射して気持ち悪く光る。
慌てふためく少女の胸には、とっても素敵な十字架がぶらさがっていた。