剣の記憶    第五節 竜の覇者


 こめかみに手をやってみると、ぐちゅり、と慣れしたんだ感触がした。
 血だ。血だ。血だ。
 彼は、今よりずっと昔から、この感触に日々ふれあってきた。その血は自分のだったり、敵のだったり、「仲間」のだったり。彼はきっとこの世界の誰よりも多く、流血を見てきた。
 何時からだっただろう。
 彼は考える。
 何時もそうだった。
 彼は考えた。

 違う。

 確か、彼にもあった。ずっと昔。 
 靄がかかったような記憶の向こう。
 誰も殺していなかった、日々。誰にも殺されなかった、日に。

 

 

 

 

 

 


 

 彼女は、 そこ  に い、 た    

 

 

 

 

 

 

 …………。
 ……………。
 ………………。


 少年を現実に引き戻したのは、再度の風切り音だった。
 魂に刻み込まれた、鍛錬の賜物と言っていいだろう。
 高速で迫るそれを、少年は見事に短剣でたたき落とした。追撃も、同様に叩き落とす。そして、少年は跳ね上がるように起き上がると、右手の短剣を構えて、一気に射手に突貫した。射手… 小弓を構えた女は、動じず弓を放つが、全て弾かれるか、少年を掠めるのみ。
 後一歩。
 後一歩踏み込めば、短剣が届く。そんな間合いに入った瞬間、少年と射手の間に、巨大な刃が割り込んだ。軸部分が透き通った材質で出来た、美しい巨刀だ。その巨刀は一旦静止すると、
「噴ッ!」
 一気に、少年に向かってきた。瞬時に短刀を盾にしたが、巨刀は止まらない。そのまま振り抜かれ、彼は塵屑のように吹き飛ばされた。
  だが、彼は慌てない。冷静に体を回転させて姿勢を安定させ、そのまま足から着地し、関節の動きで衝撃を吸収する。そして即座に疾走しようとして、出来なかった。
「………」
 足が、床にめり込んでいたからだ。
 石造りの床に。
「………!」
 ぐらり、と体が揺らいだ。片手で床を着いて、転倒するのをこらえる。
 次の瞬間、少年は弾かれたように顔を上げた。目の前に、そいつが居たからだ。
 長い黒髪。端正な顔立ち。紅蓮の如き鎧。
 だが、そんなのは些細な特徴だ。そんなのはおまけの様なものだ。
 そいつの一番の特徴は、瞳だ。 瞳。蒼い瞳。
 少年の髪と同じ、深い蒼色の瞳。澄んでいて、それでいながら、底が無き水のような、深みの在る蒼。
 全てを飲み込む蒼。
 全てを受け入れる蒼。
「少年よ」
 その瞳で、見上げる少年の瞳を直視して、そいつは言った。
「私はラヴァ・ヴォークネス。この世界をいずれ統べるもの。お前は?」
「………サブナク!」
 自分が叫んでいたのに気付いたのは、跪いた体勢のまま、強引に跳躍してからだった。力づくで引き抜いた足が軋む。向こうで、射手が何か叫ぶのが聞こえる。全く動じず、瞳だけで自分を追うラヴァが見える。世界の全てが、引き延ばされたように、ゆっくり見える。
 その間延びした世界で、少年は右手の短刀を振り下ろした。狙うは瞳。自分を見つめる、 ラヴァの蒼い瞳。全てが鈍くなった中で、短刀の銀光だけが、何時も踊りに動いていた。
 だが、ラヴァは短刀を左掌によって防いだ。切っ先をその左掌で受け止めたかと思うと、刃がそのまま嘘のように刃が砕けたのだ。先程の大剣との交差で短剣にヒビが入っていたのか、それとも、ラヴァの掌が特別なのか。あるいはその両方か。無数に砕けた刃の煌めきの向こう、少年は答えを忌まわしい蒼い瞳に問いかけた。
 返答は、笑みだった。
 ラヴァは獰猛な笑みを浮かべると、一気に右手の大剣を真横に振るった。少年はこれを剣の腹に手を置き、大剣の上を転がるようにして躱すが、着地と同時に追撃の蹴りが来る。慌てず掲げた左腕で受けるが、重い。一瞬をもって手甲に亀裂が入り、体が浮く。
 だが、それは想定内。ラヴァの剛力は、先程吹き飛ばされた時に身に染みている。
 力に力で対抗するのは、馬鹿のすること。
 だから、少年はラヴァの力に抗わない。逆にその力に乗り、自ら進路方向へ跳躍する。そうすれば勢いは自分の力となり、少年に高速移動を可能にさせる。そして、高速移動こそが少年の剣の信条だ。
 返された大剣が少年を掠めるが、一気に加速した体はそれを振り切る。そのまま一瞬を持って少年は大剣の間合いを離脱し、壁に着地。さらに壁を蹴って天井に着地し、ラヴァの真上を取る。瞬間、見上げるラヴァの視線と少年のそれが、再び交差した。
「ラヴァ様!」
 叫んだ射手の声を合図にするかのように、少年が落下。否、撓めた足で天井を蹴り上げた得られたその速度は、突撃、と呼んでいいものだ。あまり高くもない部屋の中、瞬時に両者の距離が縮まり、少年は一気に左腰の長剣を引き抜いた。直後振り抜かれる白刃と振り上げられる白刃とが激突し、火花を散らして鋼が悲鳴を上げる。
 今度は、少年は跳ね飛ばされなかった。
 落下する力と、跳躍する力と、全体重。
 その三つが加えられた今、少年の斬撃はラヴァのそれとも遜色の無い弩級の刃と化したのだ。
 その結果、激突の反動だけが両者に残る。ラヴァの巨躯が擦過音を立てて後退し、少年が空中で後退して、再び壁に着地。刹那の間も置かずに、少年がそのまま壁を蹴り、再加速する。直後ラヴァが放った迎撃の刃と、少年の剣が交差し、またも少年が弾かれた。だが少年はその反動を用い、またも飛嚥の如く空を舞い、ラヴァに突撃していく。そして、それは時間を追うごとに加速していった。
 三次元戦闘。
 これは、暗殺者が最も得意とする立体戦闘術だ。室内で行動する事が多い暗殺者にとって、壁や天井は駆使すべき必須の足がかり。だから立体戦闘の術は体系化され、暗殺者達の間で研鑽され、先鋭化されていた。当然少年もそれを学び、先程もそれを駆使して騎士の不意をついた。
 だが、少年にとっては壁や天井はただの足がかりではない。
 少年にとって、それらは戦場だ。地面と同様、踏みしめ、駆け抜けるべきものだ。だからこそ彼は常日頃、天井からぶら下がって寝たりして、体を慣らしている。そして、それは慣らしていない者にとってはあまりにも異質で、対応出来ないものだ。全ての時間を、その為だけに捧げた者にだけ与えられる世界だ。

 ………なのに。

 ラヴァは、少年の目の前にいるこの敵は、その世界について来た。それどころか、対応し始めてさえいる。少しずつではあるが、反応が早くなって来ている。見た目こそ、少年の方が派手に立ち回っている分押しているように見えるだろうが、派手という事はそれだけ動いているという事だ。このままでは、いずれこちらの体力が尽きる。
 だから、少年は更に加速した。有限のものが尽きる前に、勝利するために。
「おお…!」
 少年は叫ぶと、全力で天井を蹴った。だが、向かう先はラヴァではない。
 床だ。
 空中で猫のように回転し、四肢で降り立つ。そして彼は衝撃で四肢が軋むのも構わず、両手を懐に突っ込んだ。そこで視線を見上げてみると、ラヴァは悠然と片手で大剣を下げ、こちらを見ている。それを見て、少年は思った。絶対に殺す、と。
 だから、少年はその為の力を懐から引き抜いた。
 短剣五本に、苦無二本、法符が二枚。長剣以外の、少年が今持つ武装の全てだ。
 勿論、これだけでは何も出来ない。 だが、組み合わせれば、素敵な殺害手段が出来上がる。
 こういう感じに。

 直後、爆発が部屋の中を駆け巡った。
  

 

 

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