人の尊厳というものは、酷く薄っぺらいものだ。
少年の足下に転がる肉塊を見れば、誰でもそう思うだろう。
今、少年が足を運んでいるのは、長い長い冷たい廊下。そこは今や、大量の死体が連なる、地獄の派出所とでも言うべき光景と化していた。死体が生み出す血の錆びた匂いと、糞尿の匂い。それらが混じり合って、常人なら吐き気を催す空気が立ちこめている。
だが、勿論少年は常人ではないので、全く動揺しない。
彼はただ、先程彼が斬殺してきた男達とは違う、白銀の甲冑を纏った死体が転がっている事実を認識していた。
甲冑。やたらと重くて高価なそれは、戦士や盗賊が装着する事は無い装備だ。軽量化処理をするか、何かに騎乗しなければ、全く身動きが取れなくなるそれを、好き好んで装備するのは騎士くらいのものだ。だが少年の知る限りでは、この近辺に騎士を抱えるような勢力はない。そこで彼は、目の前に転がっている死体の下に爪先をさしいれ、無造作に死体をひっくり返した。仰向けになった甲冑を見やると、胸部に赤色の十字模様が刻まれていた。
「……」
赤色の十字模様といえば、神に命を捧げた者のみに許される紋章。即ち修道騎士団の証だ。この事から、襲撃者に修道騎士団が加担している事を少年は知った。だが、まあ、それも無理もない。なにせ少年が所属するのは盗賊団だ。周りをよく見ると、転がっている修道騎士団の死体は一個のみで、他は全て彼の「仲間」である盗賊のものだ。恐らく「マスター」が三隊に分けた内の一隊だったのだろう。随分とあっさり壊滅したものだが、修道騎士団相手では仕方もない話かもしれない。
「……」
この場で必要な情報はそれだけだろう。
そう思った少年が一歩踏み出すと、
「うああッ…!」
突如悲鳴をあげながら、目の前の弐号塔扉を突き破って、黒い装束の女が吹っ飛んできた。少年は、その女を咄嗟に受け止め――たりせず、そのまま放置。その結果女は壁に激突し、ぐきり、という音とともに動かなくなった。少年の記憶が正しければ、たった今過去形になった女は、暗殺者の一人だった筈だ。成績もそう悪くない、名も知れた中堅どころだったのだが。
少年はそこまで思考すると、そのまま疾走。一気に部屋に突入し、居合い、と呼ばれる特殊な抜き打ちを放った。鞘走りによる加速を利用したその一撃で、少年は今まで何十人もの人間を斬殺してきた。
だが、少年の手に返ってきた感触は、肉ではない、刃のものだった。激突による蒼い火花の向こう、少年は剣を交えている相手を見据えた。
そいつは、先程転がっていた死体と同じ甲冑を装着していた。胸には赤十字。間違いなく、修道騎士団の一員だ。少年はそれを確認すると、一旦刃を退いた。騎士相手には、それなりの対処法がある。すると騎士は後ろに飛び退き、長剣を掲げた。次の瞬間、掲げられた剣先に光が灯る。
一瞬、騎士が破壊の奇跡を顕現させたのかと思い、少年は構えた。だが、騎士の剣先に灯った光はそのまま刃を離れると、天井すれすれに舞いあがっただけだった。どうやら、単に第三位下等天使の一部を、照明代わりに召還しただけらしい。召還を終えると、修道騎士は勢い良く剣先を少年に向けた。
「揃いも揃って奇襲しか出来ないんですか、貴方達盗賊は。どうせ負けるのだから、せめて綺麗に散ろうとは思いませんか」
「………」
高い声だ。面頬を下げた兜を装着している為分からなかったが、どうやら甲冑の中身は女らしい。確かによく見てみれば、騎士の身長は少年より、頭一つ低い。少なくとも、純粋な力で負ける事はなさそうだ。
「無言ですか。そうですか。でも一応私は名乗っておきます。我が名はアルマ・フォン・ヴィッターハウゼン。アインブルグ区教会の、修道騎士総監です。今はアインブルグ区司教イサドリオス猊下が命の元、共同掃討作戦の為に遠征して来ました」
「………」
「やっぱり無言ですか。そうですか。ではもうあまり期待していませんが、一応貴方の名をお尋ねしたいのですが。罪人とはいえ、死せばそれ以上は問いません。埋葬くらいはしてあげます」
「………」
「…どうしても無言ですか。そうですか。では覚悟なさい。《盟約を貫く剣》、アルマ。尋常にし って!」
少年は、それ以上聞くのが面倒くさくなったので短刀を投擲した。二本の短刀は狙い違わずに空気を切り裂き、修道騎士、アルマの甲冑の関節部分。装甲が薄い箇所へと迫る。
「ち、中途半端に話を聞いておきながら、それはないでしょう!」
突然の短刀を、アルマはわずかに体を動かし、装甲部分で受けた。かきんっ、と堅い音が響いて、短刀が弾かれる。そして、視線を少年に戻すと、
(………あれ?)
いなかった。先程まで少年が立っていた地点には、すでに少年の気配も残っていない。回り込まれたか、と慌てて後ろに飛ぶが、予測した追撃の刃はなく、アルマの着地音だけが部屋に響く。…いや、違う。
咄嗟に天井を仰いだ視線の先。そこには、
「う、嘘でしょう?!」
天井にぶら下がって、移動する少年の姿があった。それはどう考えても人間には不可能な動きで、むしろ蜘蛛とかに近い。思わず疑惑を声に出してしまったアルマを嘲笑うように、少年は天井を移動。そのまま重力を無視して、天井を蹴って跳躍、一気にアルマに飛びかかった。反射的にアルマが剣を振るうが、力の入っていないそれは、やすやすと少年の篭手に弾かれる。そのまま少年はアルマの背後に組み付き、一気に、
「うあっっ!」
後ろへと引き倒した。重心が安定しない甲冑では、体勢を立て直す事もできない。少年はすぐに身を翻して廻りこむと、止めとばかりに、胴に前蹴りを叩き込んだ。それが決め手となり、アルマはゆっくりと床に倒れ込んだ。甲冑と床とが激突する、甲高い音が部屋に響く。
アルマはすぐに起き上がろうと足掻いたが、少年はそれを許さず、すぐに馬乗りになった。そして体全体で、暴れるアルマを押さえ込み、同時に右手で厚刃の短剣を引き抜く。そのまま左手で兜に手をかけると、一気にそれを取り外した。
途端、赤いものが少年の視界に広がった。
髪だ。
兜の下に纏めていた髪が、強引に兜を取られ、流れ出てきたのだ。
「…殺しなさい」
赤い奔流の下。顔を背けたアルマが告げた。
少年も勿論そのつもりで、短剣をアルマの首に突きつけ、そして、
「…ミ、リィ?」
誰かの名を口にした、自分に気付いた。
次の瞬間、長い棒のようなものが、少年の頭があった場所を貫いた。
刃の宴は、まだ終わらない。