…たったったっ。
足音が、闇の向こう側からやって来る。
冷たい石造りの向こうから聞こえるそれは、しかしすぐに近づいてくる。
そして、曲がり角に備え付けられた松明に照らされ、足音の主が姿を現した。
目元だけが露出した黒衣を纏い、片手に長剣を携えた少年だ。
淡い炎に照らされたその顔には、披露も、緊張も感じられない。
彼は回廊を疾く走る。黒の装束が、生み出される風に翻る。
原始的な照明設備の光は弱く、しばらく走れば視界は闇に閉ざされる。
しかし彼は逡巡せず、闇の中へ疾走し続ける。あたかも、闇の中を見通している様にその足音には揺らぎがない。
…たったったっ。
そして、来た時の様に、足音が静かに闇の向こうに消えてゆく。
後には何事も無かった様な静寂だけが取り残される。
今、少年は一人組織の連絡塔の一つに向かっていた。
第二節 疾走の蒼
"まず連絡塔を奪還!"
それが「マスター」の下した命令だった。
連絡塔の一つを奪還すれば、そこから施設全体の状況を把握できるし、ゴーレムなどの
少年も、当然それに続こうとした。
武器は短剣八本に、苦無五本、法符が三枚。
充分な装備とは言い難いが、この隠し部屋ではこれ以上の装備は望めない。途中、何処かで調達しようと思いながら駆け始めようとすると、
「お前は待ちな」
背後からの声と共に、装束の首根っこを捕まえられた。
一瞬息が詰まるが、問題ない。息が詰まるのには馴れている。
「お前はあいつらとは別行動。というか、あいつらは全員陽動」
言葉と共に声の主が首から手を離したので、背後に振り向く。
そこにいたのは、白く長い髪を後ろでくくった鳶色の瞳の若い女性。マスターだ。
「正直惜しいけどねぇ、此処はもう駄目だ。だから、あたしだけ逃げさせてもらうよ」
あっさりと"仲間"達を見捨てたマスターの言葉に、しかし少年は沈黙で応じる。マスターもそれを気にもせず、くるりと踵を返して、そのまま部屋の隅にまで歩く。
「まぁ、私もちぃと甘かったって事かね。百人も組員がいれば、流石に手を出してこないと思ったンだけど…あの野郎、人数とか関係ないのな。一撃で30人も吹っ飛ばしやがった。しかも《網》が反応しない辺り、ちょー強力な魔術師なまでいやがるんだろうな」
悪態とも後悔とも付かぬ言葉を続けながら、マスターは壁の、よくよく見れば周囲と色が異なる10センチ四方の部分を片手で押した。すると抵抗なく壁が後ろに引っ込み、壁の後ろから重低音がかすかに響いてくる。それを聞くとマスターは満足げに頷き、そのまま膝を屈めた。
「…で、仕方ないからあたしはトンズラこく訳だけど……」
マスターの手が床を探り、そのまま石畳の一つをおもむろにひっぺがした。そのままマスターが石の固まりを放るが、落ちた時の音は軽い。つまりは偽石だ。
「……流石に一人だとこれからの再興も難しいから、ね。お前も逃げな。此処のはあたしが使うけど、緊急用の転送脱出陣は、連絡塔に一つずつあるからさ。これから一っ走りして、弐号塔ので脱出するんだ」
そういいながら、マスターは剥がした石畳分できた床の穴に手を突っ込み、そのまま抜いた。同時に何か長いシルエットがマスターの手から放られ、少年の方に飛んでくる。
少年はそれを、目前で右手で受け止めた。鉄の重みが腕に伝わってくるが、少年の筋力はその衝撃をものともしない。
そのまま視線を右手に向けると、蒼色が目に飛びこんでくる。それは、蒼い鞘に収められた長剣だった。鞘から柄まで、何もかも蒼い。しかも、鞘にびっしりと刻まれた
「……これは?」
「餞別だよ」
視線を剣から上げ、マスターを見る。視線の先のマスターは、久しぶりに見る笑顔を浮かべていた。
「どちらにしろ、この組織はお仕舞いだからな。今まで、よく働いてくれた」
苦笑。
「…ま、こんな言葉お前には皮肉にしかならないか」
「………」
「…あ、でもその剣あげたわけじゃないからな?脱出したら落ち合ったら返せよ?」
「………」
「返事は?」
「………」
びしっ。
「………承知」
「よろしい」
マスターが魔甲大鞭”
「じゃ、そういうわけだ。気張れよ、ソードダンサー?」
そう言うと、マスターは笑みを消して転移開始。現在座標と目的座標を合一化し、消え去ってしまった。
少年は、その後すぐに隠し部屋を後にした。
勿論隠し部屋はその際自壊させた。あの手の転移陣は一度使用すればしばらくは使えないが、魔術師がいれば転移先を特定されてしまう恐れがある。だからこそ、マスターは少年を部屋に引き止めたのだ。あの状況では、少年以外に後始末を頼める人間はいない。そして、今はマスターが最後に言った通りに弐号塔に向かっている。本当にそれぞれの塔に転移陣があるかどうか、少年は知らなかったが、
……こんな上等な剣、マスターが最後に捨てていくはずはない。
だから、きっと、転移陣はあるのだろう。少年はそう思った。だから、少年は更に疾走する。
彼の感覚に、弐号塔が見えたのはすぐだった。そこから感じられる物音は複数、かつ鎧を着込んだ者特有の金属音が聞こえる。せっかく渡された剣の持ち味を試すのには丁度いい相手だ。だから少年は蒼の剣を引き抜き、一気に敵中に飛び込んだ。