剣の記憶   第一節 深淵騎行


攻撃する勇気は最善の殺戮者だ。
死をも殺戮する。
          ーニーチェー


 ……かたん。

 何かが落ちる音がした。

 その音が響いた瞬間、少年の周囲にいた彼の"仲間"達は一斉に周囲を見渡した。それがネズミが這いずった音だと分かった時、少年にも滑稽にも思える位に男達は安堵した。男達の安堵のため息に混じって、気の早いもの達が抜いた黒塗りの短刀がかすかに音をたてる。

 次に響いたのは、ネズミの悲鳴。

 少年はあまり興味が湧かなかったので、悲鳴に振り向かなかった。だが、彼には彼が所属する組織の「マスター」と呼ばれる女性が哀れなネズミを蹴り飛ばしたのだという事が分かっていた。

 少年の背後で、息も荒く「マスター」が昔貴族から奪い取ったという豪華な椅子に座る。えてして肥満体質の貴族の為に創られたその椅子は「マスター」の小柄で細い肉体には似合わなかったが、その椅子は「マスター」のお気に入りだった。磨く作業すら自分で行い、マスター以外に触れた人間はない。…正確にはいたのだが、その人間は既に過去形になっていて、つまり結果的に触れた事がある人間はいない。

 以前、少年も「マスター」にその椅子を自慢された事があったが、彼にはよくわからなかった。そもそも、椅子なんて使った事がなかったから。だが、その態度が「マスター」には不愉快だったらしく、今よりも小さかった彼は激しく折檻された。他にする事もなかったので、叩かれた回数を数えてみた。528回だった。

  それだけ叩けば疲れそうなものだが、運が悪い事に少年が泣き叫ばなかった事が更に「マスター」の神経を逆撫でしたらしかった。「マスター」は仕事に用いる「魔女の戒め」を取り出してまで、少年を打ち据えようとした。そのままでは流石に骨を何本か折られただろうが、その時は「マスター」の上から襲いかかろうとしていた刺客を、ちょっとナイフを投擲して額を打抜いて殺して難を逃れた。痛いのは別に構わないが、骨の損傷は「仕事」に関わるので困る。

 

 …意識が今日の始まりに戻る。

 その日の始まりは別に何時もと変わる事はなかった。
 少年はいつも通り天井から逆さまにぶらさがった体勢で起床(床になど寝ていないが)し、何時もと同じ様にマスターの所へ向かった。変わった事といえば−――…

 珍しく、何時も人を殺してばかりいる彼の"仲間"達が逆に殺されて、床を真っ赤に染めていた位。

 …ああ、こいつらもついに殺されたんだな。
 その程度の感傷すら、少年は感じなかった。

 …何時も人を殺してるんだから、別にたまには殺されてもおかしないだろう。
 その程度の認識しか少年はしなかった。

 その後「マスター」に連れられ、生き残った"仲間"達と共に組織の奥の施設に入り……あちらこちらで"仲間"が死んでいたが……重い閂がされたのが二刻前。現在は皆が闘いに備えて装備を確認し、補充している。その顔はどれも汗と緊張に塗れ、何時もの喜悦の顔はない。数も本来あるべき数の、多く見積もっても三分の二といった所か。

 そこで、ふと、少年は気付いた。
 三分の二しかこの場にいないという事は、当然、組織の"仲間"達はすでに1/3の近くが消されているわけだ。そして彼の知る限り、組織というものは三割も消耗すれば大体それで全滅だった。ということは、つまり。

  彼の組織は、すでにもうほとんど知らない誰かに滅ぼされかかっていたのだ。

 ……組織が滅ぼされる?

 それは少年にとって、極めて斬新な考えだった。今まで長い間組織に属していた気がするが、今まではそんな事を考えた事はなかったし、そんな事を考える必要もなかった。しかし、現に今組織の滅びは目の前まで迫っている。それは少年にかってない恐怖と、そして、今まで感じた事もない感情をもたらした。

 ……組織が滅ぼされる?

 改めて考えた時、少年は体に震えが走ったのが分かった。同時に少年は血流が強くなったのを感じ、そして口の中が何故か乾いてくる感覚を覚えた。心なしか、視界も揺れている気さえした。原因不明な自身の異常を感じ、少年が頭を押さえようとした時、
「侵入者を迎え撃つ」
 空間を打つ声が響いた。それは、「マスター」の高めの声だ。
 愛する椅子を蹴り飛ばす様にして立ち上がり、「マスター」は改めて出撃を命じた。
 その声に、ある"仲間"が覚悟を決めた様な表情を作り、ある"仲間"は明らかに恐怖に引きつった表情を作った。だが、そんなものは少年にはどうでもいい。彼は、ただ、彼の組織を滅ぼそうとする敵を滅ぼすことだけを考えていた。

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