「卿等は、民を見殺しにすると言うのか!」
薄暗い、石造りの部屋の中。
10人ばかりの男達が、重厚な樫の机を囲んでいた。何かを会議しているようだが、誰もが腕を組むか視線を落とすばかりで、場は重苦しい沈黙に囚われていた。
だから、金髪の青年が机に拳を振り下ろした時、机に並んでいた男達の殆どが身をすくめた。
「クリステル殿下…」
一際老いた男がなだめようと立ち上がりかけたが、クリステルと呼ばれた青年はそれを手で制した。そして自ら立ち上がると、机に並ぶ男達を見渡した。自然に、彼らの視線がクリステルに集中する。
クリステルは胸を張って視線を受け止めると、端正な顔に感情を込めて男達に問いかけ始めた。
クリステルは、今年19歳になったばかりの青年である。
もう成人を目の前にしているが、その容貌には未だ少年の様な繊細さが感じられた。長く伸びた鮮やかな金髪が、その印象を強めている。しかし、細面とは裏腹にその身長は群を抜いて高い。その高さの為に細身にも見えるが、日頃の鍛錬を欠かしたことはない。
だが、彼は只の青年ではない。彼は貴族――それも、「大」という形容詞がつく――の家柄の出身だった。未だ成人していない身分でありながら、彼は子爵の称号を持ち、所有する農奴の数は1000を下らない。第二子である為に父であるカリンシア公爵の爵位と領土を相続できる望みは少ないが、それでも彼は人口の大多数と比べて、絶大な権力をもっていたといえた。
今、彼はその柔和な顔を険しくしてその場の人々を見ていた。
視線の先の男達は、その半分が鎧を、もう半分が衣を纏っている。鎧を纏っている方が騎士で、平服の方が官吏だ。居並ぶ誰もが、クリステルよりも齢を重ねている。彼らは公爵領の統治を担う両輪とも呼べる存在だった。
だが、クリステルにはその全員が覇気に欠ける様に思えた。
視界に収まる彼らは、誰もが波風を立たない様に務めているように映った。
「領民の庇護は、我等の義務!助けを求める民を黙殺して、何が貴族か!」
そんな彼らを奮い立たせようと熱のこもった声で問いかけるが、問いかけられた側は視線を逸らすことで応じた。クリステルはありありと失望を顔に浮かべると、視線を上座に座る父ーー即ち、カリンシアと呼ばれる公爵領の領主に向けた。
「父上!」
「うむ…」
重い声で頷いたカリンシア公ティベリゥスの顔には、しかし苦慮の表情が浮かんでいた。
50を過ぎたわりには、その髪に混じる白髪は少なく、その肌には生気が感じられた。若い折には世界を二分した大戦にも参加した彼は、今もその歴戦の将としての風格を漂わせていた。しかしそのカリンシア公をして、頭を悩まさせしめていた。何故、こんなことになったのか?
その場にいる誰もが思っているであろう議論を脳裏に浮かべつつ、ティベリゥスは三日前の「大揺れ」を思い出していた。
それが訪れたのは、全く突然のことだった。
何気なくティベリゥスが何時もの様に晩餐を楽しんでいると、唐突に強い振動が城内城外全ての人間を襲った。経験したことのない感触に戸惑っていると、食器が棚から落ち、蝋燭が倒れ、城の中は混乱に包まれた。
公爵は慌てる家臣を一喝すると、まず火を消す様に命じた。
それは、後世で「地震」と呼ばれる現象に酷似していた。
その現象は、まるで荒れ狂う巨人の怒りの如く、全くの無防備だったカリンシア公爵領を襲った。そもそも縦揺れの襲撃を想定していない石造の家々は脆くも崩れ去り、多くの人々が命を失った。
だが、この地で「大揺れ」が起こること自体は、全く前代未聞だったわけではない。もう既に最後の「大揺れ」を経験した人間こそいなかったが、伝記、歌、昔話… 、そういった有形無形様々の伝承が「大揺れ」の在り方と、それがもたらした災いを今に伝えていた。
今回の「大揺れ」が以前のそれと異なったのは、「大揺れ」そのものではなく、むしろその後に被害が広がっていることだった。最初は混乱に乗じた賊の類かとも思われたが、公城にもたらされた報告はもっと違う何かを伝えていた。
曰く、人間が突然消え去っている。
曰く、鬼が現れて人を喰らっている。
曰く、死人が蘇っている…、等々…。
勿論、最初は混乱した人々の流言飛語だと老練の公爵は判断した。そこで情報収集と現地の救済の為に、側近の老騎士に兵と工夫をつけて現地に派遣した。
翌日の深夜、報告に戻った老騎士は一人だった。
兵や工夫達はどうしたのかと問うた公爵に、老いた騎士は哀しげに、たった一言こう答えた。全員喰われました、と。
老騎士はそのまま深々と頭を足れると、唐突に自分の胸に深々と短刀を突き立てた。
慌てたカリンシア公が医師に診せたが、即死だった。
その後、所領を見てこようと申し出る者はいなかった。カリンシア公もまた、大戦で肩を並べて剣を振るった老騎士の最後が脳裏から離れず、敢えて命令しようとはしなかった。その間も所領の各地から救済を求める使者が来たが、公爵はおざなりな謁見を行うに留めた。
唯一、それに異議を唱えたのが第二公子クリステルだった。まだ若干19歳であり、強い正義感を持つ彼は積極的に救済の派遣を提案し、連日会議を設けた。こうして、場面は冒頭に戻る。
「父上ならお分かりの筈です!我々には義務があると!」
「それは、勿論だが…」
クリステルは、煮え切らない態度の父に苛立を覚えていた。父が長年信頼した家臣を失って気を落としているのは理解できたが、こうしている間にも民は餓えと寒さに苦しめられているのだ。領主が平民を支配する権利を与えられているのは、今のような非常時に民を救う為ではないのか。
更に父を焚き付けようとすると、公爵を挟んで左側から制止の声が響いた。
「クリステル、あまり父上を困らせるものではない」
「兄上…」
クリステルが視線を向けた先には、黒みがかった金髪の逞しい青年がいた。
クリステルの兄、カリンシア公第二公子マティアスである。
マティアスは、クリステルの7つ上の兄で今年26になる。彼は身長こそクリステルとあまり変わらないが、弟より遥かに良い体格をしていた。クリステルは母譲りの自らの容貌を決して嫌っていないが、密かに逞しい父によく似た兄を羨ましがっていた。
そんな剛胆な兄だから、クリステルは当然、兄は民の救済に乗り気だと思っていた。だからその時兄が発した思わぬ言葉に、反発よりまず戸惑いを覚えた。
「お前の意気込みは分かる。だが、その為に臣下を犠牲にして良いのか?」
「しかし、民は我等の救済を待ち望んで…」
「確かに、民は大事だ。だが…」
クリステルの言葉を遮ると、マティアスは椅子から立ち上がった。そして手を広げて、クリステルだけではなくその場にいる全員を見渡した。
「此処に集う諸卿は、誰もが公爵領に必要な人間。そうそう危険に晒すわけにはいかない」
では民はどうするのですか、と口にしかけてクリステルは兄が言わんとすることに気付いた。
「…傭兵ですか」
「そうだ」
傭兵、という言葉に家臣達にざわめきが走った。
傭兵は、軍を構成する上でもっとも手軽で確実な方法だ。カリンシアが属する帝国も、他の王国や異民族と戦う時は専ら傭兵で軍を構成する。彼らは金が払われる限りはきちんと働くし、それに費用対効果でも貴重な騎士より遥かに効率がいい。
だが。
「……領民の守護を、傭兵に任せるのですか」
「何か不満か?」
不満を押し切れずに口にした言葉を、マティアスはあっさりと切り捨てた。確かに家臣の命は貴重であり、金で購えるならその方がいい。だが、本来戦いの名誉は貴族のものではないのか、とクリステルは思った。
「勿論、傭兵だけでは民に示しがつかないからな。諸卿にはそれぞれ兵を出して頂こう。それに」
と、言葉を切ってマティアスはクリステルに視線を向けた。
「派遣隊の指揮は我等兄弟でとる。それで我等の名誉も守られるだろう?」
クリステルは、目を見張った。
「兄上自ら御指揮を?」
「どうせお前は何を言っても出るのだろう?ならば、私が行かぬわけにもいくまい」
ぱっと表情を明るくして、しかし同時にクリステルは自らを恥じた。マティアスは出陣を臆してなどはいなかった。臆した貴族を押さえて、迅速に出陣しようとしていたのである。
「父上、それでよろしいか?」
「うむ…。だが、お前はカリンシアの跡取り。無理はするな」
「ご心配には及びません。日頃の鍛錬は、こういった時の為のもの」
マティアスが深々と父公に頭をさげると、居合わせたもの達から拍手が起きた。
会議は決した。
すぐに兵の募集が告示され、二日後500の兵力をもって最も近くの村、アンファングへ救援に向かうことになった。総指揮官はマティアス・ナザレス。副将は、クリステル・マノン・フォン・カルバリ。本人達は知りようもないし、また後世の歴史家も知ることはなかったが。
彼らこそ、人類が「彼ら」に集団的戦闘を試みた始めての事例であった。
出陣