青年は、重い鎌を降ろすと手ぬぐいで顔を拭いた。
彼の前の前に広がるのは、黄金の波―――収穫をまつ、小麦畑だ。近辺の村全体で管理する畑は広く、その姿は広大、の一言に尽きる。更に夕焼けの輝きが、黄金を朱に彩る。
今年は良い出来具合だ、と青年は思った。去年は東から冷たい風が吹いた所為で、粒が小さくなってしまった。しかし今年は惚れ惚れする位、たわわに実っている。これなら、古くなってきた農具を買い替えることもできるだろう。
突然世界が揺れたのは、青年がそんな満足感を覚えていた時だった。
「っっ?!」
声も出せず、青年はたたらを踏んだ。驚いて鎌を足の上に落とし、苦痛で顔を歪めるが、振動は止まらない。まるで青年を嘲笑うかの様に世界は揺れ続け、青年は尻餅をついた。
生まれて初めての経験に、青年はどうすればいいのか分からなくなった。ただ尻餅をついたまま頭を両手で抱え、神に祈る。すると願いが届いたのか、振動は発生した時と同様に唐突に停止した。
「……?」
おそるおそる、青年は顔をあげた。体を小さくしながら、周囲を見回す。だがその視界に映るものに、特に変化はない。青年はほっと息をついて、立ち上がろうとして、自分の腰が抜けていることに気付く。苦笑いを浮かべて助けを求めようと考えるが、あの振動の後だ。きっと他の皆も自分と大差ない状況だろう。仕方なく辺りを見回すと、小麦畑の穂の中から女が顔を出した。
「おい、悪いけどちょっと手を貸してくれないか」
平然とした顔の女に少し違和感を感じながらも、青年は女に声をかけた。すると女はにっこりと微笑み、こちらに歩み寄ってくる。その視線に、何故か青年の鼓動が強まる。
「あ、あれ… 見ない顔だな。お前、何処の村のやつだ?」
話しかけるが、女は微笑むばかりで返事をしない。青年は仕方なく、女の顔をよく観察する。まるで貴族の様に真っ白い肌、すっきりとした鼻筋、そして、腰まで届く燃える様な赤い髪の毛。
……赤い、髪?
青年は、全身に悪寒が走るのを感じた。青年の髪は、黒色だ。これは別に青年に限らず、この地域では普通髪の色は黒が普通だった。貴族や行商人には金髪の者もいるが、それでも赤い髪の毛というのは聞いたことがない。
「BARBARBAR」
「?!」
真後ろから聞こえた声に、勢い良く振り返る。するとそこにはつい先程まで前方にいた筈の女が、膝を屈めて立っている。その顔には、無邪気な笑みが張り付いていた。
彼女はそのまま男の首筋に顔を近づけると、
「〜〜〜〜っっ!!」
口を開け、その首筋に歯を突き立てた。細く、華奢に見える歯は易々と男の首を貫通し、その下の血管に突き刺さる。自然と血液が女の口内に迸るが、女はそれを拒むどころか、貪る様に嚥下する。女の白い喉が上下に動くのを見て、青年は不思議と綺麗だな、と思った。
そして、それが青年が思った最後のことになった。
世界が狂い始めた、瞬間だった。
獣の王冠