臆病者

 ある日読んだ本で、犬猫が本気を出すと、人間より余程強いことを知った。
 そう考えて外を歩いてみると、外はとてつもなく恐ろしい場所だ。
 人間を易々と殺せる獣を、みんな何も考えていない白痴めいた顔で連れ回している。

 僕は普通の人間だ。

 怖いものと一緒にいたくないし、怖いものからは逃げたい。
 だから外に出歩く時、出来るだけ犬を連れている人間から離れようとした。
 だが、そういう時に限って奴らはこちらに近づいてくる。

 僕は必死に悲鳴をあげて犬から逃げる。
 犬は、そんな僕を、耳元まで裂けた口から唾液をまき散らして、追いかけてくる。

 なのに。

 飼い主は醜く太った腹を揺らせながら、僕を嘲笑うばかり。
 蜂蜜が腐った様な声で、犬っころの名前を呼ぶばかり。

 それだけで頭に来るのに、よりにもよって飼い主は犬を「ちゃん」付けで呼んでいる。

 お前は馬鹿か。阿呆か。それとも畜生か。
 何がちゃんだ。犬は人間に危険な生き物なのに。

 何分命が懸っているので、本気で嫌がる僕。
 そんな僕を見る眼の数は増えていく。

 何がおかしいのか、居合わせた子供たちが嗤う。
 餓鬼どもの甲高い声が唱和して、ざわざわと神経に障る。

 それでも、僕は走り続けた。後ろから、獣が追いかけてきてくるからだ。
 口の中がカラカラだ。頭が痛い。
 なのに誰も僕を助けてくれない。獣は追いかけてくる。

 振り返ると、獣は赤黒い舌をこちらに見せつけた。
 それはとてもとても気持ち悪いもので。
 頭の中が、真っ白になった。

 気付くと、僕は振り向き様に獣の鼻頭を蹴り上げていた。
 爪先が、深く獣の鼻先にめり込んでいた。

 湿った音と共に、獣がアスファルトに倒れ込む。
 僕は駆け寄って、そんな獣の首を踏み込む。

 安全、と名がついたの靴は確かに安全だった。
 いくら蹴っても足は傷まず、獣は静かに黒い塊を吐いて動かなくなった。

 

 そして生まれた奇妙な静寂の中、僕は荒れた息を整えた。
 危険を排除できた事に爽快感を覚えながら、立ち去ろうとすると甲高い叫びが耳を貫いた。
 振り返るとあの太った飼い主が、犬の名前を発狂したように叫びながら猛然と突進してきた。

 僕は、飼い主を宥めようとした。
 貴方が犬の手綱を離すから悪い、犬なんかを連れているのが悪いと。
 だけど飼い主は人の話を聞こうとしなかった。唾液をまき散らしながら、叫んでくる。

 最初は、うんざりとしながらも僕は話を聞き流そうとした。
 だけどいくら言い聞かせても、いくら言われても理解しようとしない飼い主に次第に僕は苛立った。
 本当に同じ人間なのかとさえ訝った。

 そして気付くと、僕を見る通行人の眼が変わっていた。
 僕に同情的なものはなく、むしろ、冷たい視線ばかりだった。

 ちょっと待て。僕は人間だぞ。
 なんで危険な獣を駆除しただけで、そんな視線で僕を見る?

 訴えを乗せた視線を、しかし誰もが受け取ろうとしない。
 誰も彼も視線逸らすばかりで、誰も僕に関わろうとしない。

 僕は人海の孤独に耐えられなくなって、走り出した。

 すると、無関心な視線の群れが、僕を追いかけてきた。

 

 

続く。

 


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