オブセッション

 ある日、ある夕暮れ、ある通りで、ある男が、通りすがりのある女性を殺した。
 すれ違い様にナイフを、肋骨と肋骨の隙間に突き刺したのである。
 だから、心臓と肺とを貫かれた女性は、出血するまでもなくショックで死んでしまった。その女性はその時18歳だった。

 男は、ナイフを突き刺した後逃げ出した。コートに返り血をたっぷりと浴びたまま。
 だから、男はすぐに警察に通報されて、そして逮捕された。

 警察は、男と女性の関係を調べ上げた。そして、何の関連性も見つける事ができなかった。
 男が、なんの理由もなく、女性を殺したからである。

 だが、男は決して殺人快楽者ではなかった。むしろ、健常者だった。
 男には前科はなかった。その男は、普通の、普通の学校に通う、学生だった。
 だから、警察は混乱した。ひょっとすれば冤罪ではないかとすら、疑った。

 なら、何故男は女性を刺したのか。

 それは、彼の抱えるコンプレックス、劣等感の所為であった。
 あまりにも普通で、あまりにも臆病な男は、あまりにも大きい世間の中で、あまりにも小さい自分が恐ろしかったのだ。
 だから、男は、女性を殺した。

 少なくとも、それで、自分が世間に影響を与えれる事実を確認したかったのである。
 それと、征服欲。人の一生を、自分の様な存在が改変できるという事実の確認。
 それは彼に、自虐的で、とても甘い、屈折した満足感を彼に与えた。

 だから、彼はもうその時点で死刑になっても構わなかった。
 むしろ、いまだ健常者である彼は、自分の様な恐ろしい悪魔じみた汚らしい人間が社会に解き放たれて、また彼にとって高貴な他人が犠牲になるという、あってはならない事態を恐れた。

 だが、男はそこで気付いた。

 なら、じゃあ自分は女性を刺し殺した後逃げ出したのか?

 この下らない事柄は、彼にとっては衝撃だった。だから、彼は考えた。
 そして、ようやく気付いた。自分は、あくまでも生きのびたい事に。

 生きたい。 それは、生物として最も自然な感情。

 冷静であれば、一人殺した程度で死刑にならないことを思い出せただろう。
 だが、その時の彼は冷静ではなかった。
 だから、男は、縋ってはいけないものに縋ってしまった。

 男は、取り調べの刑事の向こう側に、黒い黒いモノがそびえ立つのをみた。

 

 夕日の色に染まった取調室。刑事が、男に問いつめる。
 何故殺したんだ。動機はなんだ。お前がやっている事は分かっている。黙っていても、お前の不利益になるだけだ、と。
 刑事は苛々としていた。問いつめても、問いつめても返事をしない男に。こいつには精神鑑定が必要だ、と刑事は考えた。
 近頃の犯罪者は精神異常を装って、罪を逃れようとする場合があるから、油断はならないのだが。

 その時、男に動きがあった。男は、うなだれていた顔をあげると、刑事にただ一言こう言った。

「犠牲者の方の、最近の友人関係を、調べて下さい。」 と。

 


 そして三日後、男は釈放された。
 その日から、その街に新たな都市伝説が生まれた。

 ナイフをもって、夜の街を徘徊する黒い殺人鬼の伝説が。


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