序章  衣の魔術師




  「貴女は思った事がありませんか? 自分自身がちっぽけな存在だと。 自分なんか消えてしまえばいいと。」

   其処は暗闇に覆われていた。見渡す限りの暗黒ー… それだけが其処にあった。
  そこには二人の人間ーー 少なくとも、人間に見えるものたちがいた。いや、正確にいえばもう一匹。
  巨大な漆黒色の蝙蝠がその場の内の一人、その毛並みと同じような漆黒の長衣を纏った長身の男の肩にとまっていた。
  
   男の顔は目深にかぶられたフードによってあまりよく見えないが、その恐ろしく整った鼻筋と唇は美の神その人が造り出した様な完璧な造形美を誇っている。 一方、その男と向かい合う様に床に片膝をついている のは、妙齢の女性だ。 白を基調とした豪奢なドレスをごく自然に纏ったその何処か高貴な匂いをもつ少女は、その白い肌によく映えるパールピンクの唇を尖らせてキッと男を見上げている。 見ればその琥珀色の瞳は 激しい憎悪と憤怒、そして絶望をその中に映し出していた。

 「まぁ、これは大体の人間が一度位考える事なのですよ。特に若い時にね。 ですがこれはあながち間違いとも言えません。
  確かに自我というのは悠久の歴史においてはちっぽけで、矮小なものに過ぎませんから。」

  淡々と言葉を紡ぐその声は、柔らかった。一種の親愛さえ含まれていたといっていい。
  だが床に片膝をつき、男をみあげる小女の目は純粋な嫌悪に包まれている。 いや、恐怖だろうか。
  たとえ目の前に凶悪な殺人鬼がいたところでこの様な表情は浮かべまい。必死に動揺を隠し男を睨みつけているその小柄な体は、だがかすかに震えていた。

 「…さて。では楽しいおしゃべりは此処までにして…  儀式の時間ですよ、白の君…。 
  本来ならそろそろ王子様か正義の騎士が悪い魔術師を退治にくるはずなのですが、どうやら今宵は道路が根絶しているようでねぇ。」
 「 ……!」

  話を切り上げた、黒衣の男の手の中には何時の間にか長大な杖が握られている。この世にそんな杖を持ち、長衣を纏う人種は一つしかない。
  ーーーーそう、この黒衣の男は魔術師だった。
  世界で最も謎深く、根本的な力 「魔力」。 その流れを解読し、構築し、そして使役する。
  その細い腕の一振りで膨大な暴力を振るえる黒衣の魔術師は、右腕で杖を地面について屈むと震える少女ににっこりと微笑んだ。
  かつて人類の始祖をその誘惑で陥れたという蛇が浮かべた微笑みもかくや、と思わせる微笑みを浮かべたまま男は少女の顎に優雅な動作で左手をかける。
 
 「…ああ、白の君よ。 貴女も私となる。貴女は貴女でありながら、私となる。 その麗しい姿はそのままながらも、貴女の魂を私は幾重にも縛って離さない。
  そして貴女はいずれ来る滅びの定めから解き放たれ、永遠の存在となる…。」
 
  最後の瞬間まで、あくまで優雅に典雅に魔術師は薄幸の少女の唇におのが唇を近づけた。

 「… その方は一体何者… なの…?」

  お互いの唇がいよいと触れようかという刹那、最後の気力を起こした少女が問いた。
  もはやこの場の状況が逆転されるとは彼女自身思っていない。彼女の騎士は皆彼女の目の前で倒れ、彼女自身の力さえ魔術師には効かなかったのだから。
  自らが救われる為にはそれこそ天空の神々がそろって降臨するしかないのではないか。 彼女はもし、本当に神々が降臨してきたらと考えたがすぐに可笑しくなってやめた。
  だいぶ精神が参っているらしい、自分にしては愚にもつかない事を考えた。
  自分に限って、神々がおりてくるはずがない。くるわけもない。 自分は正反対の存在なのだから。
  あきらめは最早ついている。 いや、それどころか魔術師の接吻を一刻も早く望む自分がどこかにいるのも少女は感じていた。
  おそらくは目の前の男の魔力にあてられたのだろう。 彼女はもはや、冷静な思考を失っていた。
  つい先程まで心を包み込んでいた怒りも、絶望も、そして憎悪すらまるで嘘だったかの様にすでに何処かに消え去っている。

 「ふむ、私ですか? そうですねぇ、私は…」

  まさに悪魔の気まぐれだろう。 少女の問いかけを聞いた魔術師は、一瞬感心した様に少女を見つめると少女の唇からはなれ、かわりに彼女の耳にそっと囁いた。
  びくりと反応する少女の肩を抱くと、優しげな声で続ける。

 「私は…アズベール。 神が捨てたモノを人が拾って造り直した、人の為の人を護る為の剣です。」

  そして、熱い吐息が空間に響いた。






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