盤面の開幕

 


 満月が輝く夜だった。

 女… いや、少女と言った方が正解だろう。
 彼女は愛おしむ様に飽きる事なく月をみていた。月は彼女にとって親しいものだったから。
 
 見た目は10代半場といった所。そのやや時代錯誤的な豪奢で華麗で、しかし実用性に欠けるドレスの端から覗く肌は病的なまでに白い。
 まるで人形の様なその姿はしかし、若々しい意思が溢れる大きな深紅の瞳によい意味で裏切られていた。
 「ーーー様。」
 静かな声と共に闇から男が現れた。否。男は先程までからいたのだが完璧に闇に溶け込んでいたのだ。黒い三つ揃いで包んだその体は細いが、それは針金を思わす極限にまで締まった肉体。
 彼は恭しく少女の足下に左膝をつくと、右手の甲を胸の前で掲げた。跪いた男に少女は軽い微笑を浮かべ、自らの騎士を労る様にそっと床に向いている男の頭に手を載せた。

 数秒の沈黙。 そっと手をのけると少女は壁際の窓まで歩いて立ち止まり、静かな声でいった。
「… 始めるのね?」
 それは質問というよりは、確認。男は沈黙をもって彼の主の質問を肯定した。
少女は軽くため息をつくと振り返り、男に向き直った。男は恐縮したかの様に微動だにもしない。
 ほんの少しの逡巡の後少女は再び口を開いた。
「顔をあげて。 その格好じゃ話もできないじゃない。』
「…は。」
 少女の命令に、男はゆっくりとその顔をあげた。意外な事にその顔はいまだ若々しさが残っていた。20歳前後、多く見積もっても20代の半ばまではいっていまい。
 青年の顔をひとしきり見つめた後少女はおもむろに青年に問いかけた。
「… それで? 盤面は整ったの?」
「は。 すでに聖杯の素材は環の都をたち、明朝には黒衣の都に到着する予定です。走狗の配置も完了し、儀式遂行の祭具も予定数まで後わずか。」
「聖杯の護衛は? 鋼の王と黒衣が聖杯を野ざらしにするはずはないと思うけど?」
「調査は済んでおります。護衛は瞳と法の狩人の二名。到着と同時に聖杯の護衛に入ります。」
 少女はそれを聞くと、その美しい弧を描く眉をすかし歪めた。
「瞳と法の? 貴方達だけで対処できるの?」
「問題はありません。商人との交渉で手にいれた例の駒を使役しますれば。いざとなれば私が出ます。」
「… 無理はしないでね。父の代から仕えてくれた貴方達を失うのは心痛い。」
「…そのお気持ちさえ頂ければ我々はそれで充分。ーー様の為ならば例えこの身が銀の杭、」
「言わないで!」
 少女は青年の言葉を半ばで制止すると、青年の前まで歩み寄りそして自らも膝まついて青年と目線を合わせた。
その目は軽く潤み、雄弁に何かを青年に語りかけていた。そしてわずかに、先ほどから無表情だった青年の顔に感情らしきものが浮かび上がった。
 それは冷静な仮面の下の彼の素顔。 青年の少年らしさをかいま見させる表情。決して破ってはならない宿命を懸命に堪える少年の顔。
 そしてその胸の前でかかげられた右腕がわずかに少女に伸び…  そして直後電撃に弾かれたかの様に引っ込められる。
 その様子をみた少女はなおも熱い視線を青年に向けたが、しかし今度は青年は動く事はなかった。
 最後に哀しそうな、それでいて無理のない笑顔を浮かべると少女は再び壁際の窓まで歩き青年に背中を向けて窓の外の月を見上げた。

 再び部屋が静謐に包まれる。 だが、その静けさを破った時、少女の声には先ほどまでの優しさが消え、傲然たる女主人のそれに変わっていた。
「…我がしもべ、我が走狗よ。数百年に渡る汝と、汝の眷属に対する我が血族の恩義に忠節をもって応えよ!」
 沈黙のままに頷く青年。それを見て満足そうに少女は頷くと彼女の忠実な下僕に振り返り言葉を続けた。
「瞳と法の狩人がなんぞあらん、ひねり殺せ。その血をもって貪欲なる汝らの満たされん渇きを満たすがいい。」
 黒衣の者を蹴落とせ。鋼の王を絶望に陥れよ。 そして聖杯を我がもとへ連れて来るのだ!」
「は。」
「私が許す、存分に破壊しつくせ。喰らい尽くせ。 犠牲になったものには私が祈ろう。」
「は。」
「ならば、何を待つ! 疾く走りその使命を果たせ走狗よ!」
「仰せのままに。」
 青年の姿が闇の中に消え、その気配が遠く過く去る。
 満足げな笑みを浮かべていた少女は、気配が完璧に立ち去ったのを確認するとふぅ、とため息を付きうなだれた。
 しばらく佇んだ後、小さく頭を振る。そして、ふと彼女はもう一度振り返って窓の外の夜景を見つめた。

 満月はまだ、窓の外の夜空にその優しい光を放っていた。





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