東の昔−幼年期
家は壊れていた。家と言うのはまぁ家屋と言う訳ではなく、只、単純なまでに、「家庭」が崩壊していた。父親は何処にいるかわからない、それ以前に誰かわからないから何処にいるかわからない。単純にシングルマザーという奴だった。母親は俺を生んでからずっと身体を壊していた。母親がきびきびと動くところなんて見たこと無かった。想像すらしていなかった。小さいときはそれが普通だと思っていた、他の家庭、他の世界を見たことが無かった。物心がついて、幼稚園に行くようになってからやっと回りの家庭は自分の家庭とは違う事が気がついた。ショックだった半面、自分は違うんだという自覚を持っていた。決して嫌味なガキではなかったと思いたいが、回りからはいつも白い目で見られていた。突っぱねって居た事もあるだろうが、小学校に入るまで友達という友達は居なかった。自分ではいらないと思っていたし、回りの奴等も俺と遊んでいても何か一線の向こうに居るのを小さいながらも感じていた。その感覚も嫌いではなかった、その反面自分は周りとは違うという妄想を肥大させる結果になっていた。小学校に入って、色々な欲が出てきた、遊びたいという欲もあった。一番大きかったのはいつもフラフラしていた母親を守りたいという気持ちだ。だから空手を始めた。強くなれば何でも守れる気がした。周りとは違う家庭環境で育った自分でも何か守れるという事を証明したかった。自分と、周りにそれを見せたかった。だから毎日を空手に費やした。学校に行く前に道場に顔を出した。学校が終わってから夜になるまでずっと型を繰り返し、サンドバッグを叩き続けた。少しでも自分の今の状況を忘れられる気がした。
母親の話をしよう。彼女は決して絶世の美女なわけではなかったし、多分今思い出しても美しい部類に入っているわけでは無いだろう。幼いとき、彼女がとても崇高なもののように感じた事があった。多分一年の4分の1は病院の部屋で過していた。その日も普通のひだった。俺がちょうど4年生に上がった日だった。病院に入院していた母親に会うために病院に向かった。個室なんてところには入ってなかった。金も無かったし、多分今考えれば決して重い病気ではなかったのだと思う、多分少なくともあの時は。いつも母親は右側の部屋の突き当たりに居た。そこを指定していたかは知らないが、いつもそこだった。そこで母親はいつも外を見ていた。何を見るわけではなく、只只空をじっと見つめていた。夕焼け越しに見る母親を見て俺は美しいと思った、絶対俺が守らなきゃと思った。時々母親は医者から止められているのに病室でタバコを吹かしていた。俺がじっと見ていると、俺の方をみて曖昧に笑い、俺の口に手を当てて「内緒だよ」と嘯いていた。タバコ、多分俺が未だに母親の幻想を見て自分ですっているんだろうと思う。自分でもバカバカしいが、線香のようなものだ。
守るべきものは案外すぐ無くなった。母親が病室から飛び降りた。原因はわからない。生きるのが不安になったのか、生きるのが面倒くさくなったのか、只の気まぐれなのか。判らないが死んだ事は間違いない。俺は守りたいものが守れなかった。守れると思っていた。守れる事を証明したかった。守りたかった。純粋に、あの人を守りたかった。
そこで俺の目的とゴールは失われた。一人の生活が始まって2ヶ月。母親のいつも居ない家にもなれてきたころ、朝起きたら目の前は真っ暗だった。目を開いても、閉じても。結果から言って、盲目になっていた。何とかタクシーを呼んで病院に行った。診断はストレス性の失明だそうだ。何か心に負担をかけすぎて、もう何も見たく無いと強く願ってしまったらしい。俺は願った覚えは無かったが、その時は、そうだったのだなぁぐらいの認識だった。
夜明けはすぐに現れた、少しの変貌とともに。家でじっとしていると、急に何が何処にあるかわかるようになった。動いているものも判っていた、誰が何処にいるかもわかっていた。時間が経つと段々視界が明るくなってきた。完全に全てが見えるようになったときには、自分の頭の中に、この街の地図と何が何処にあるかが判っていた。コレが「能力」だということに気づくのは、まだ先の話だ。しばらくは便利な事を出来るようになったとしか解っていなかった。中学、高校と母方の家庭から出してもらって卒業した。そして自分の「能力」を活かした探偵事務所を設立した。まだこの頃は自分の能力が何かは判っていなかったのだ。ある日、いつものように午後になってから目を覚まし、一服していると来訪者があった。探偵事務所としてはどちらかといえば成功していたほうなのでそんなに珍しくは無かった。しかし「それ」は珍しかった。
それがキルスと知り合った初めの日だった。そこからキルスと一緒に仕事をするようになって今に至る。幼い頃の記憶は今でも鮮明に覚えているし、これからも忘れるつもりは無い。忘れるような出来事ではないし、忘れるようであったら自分で自分の命を絶つだろう。それがどんな理由であれ。記憶喪失になってもこの誓いは忘れない、年老いてボケてもこの誓いは忘れない。多分これからもタバコは吸うし、自分の中から母親の幻想は消えない。それで良い。それが今であり、それは昔だ。これで良い。これで良いんだ。